陰の行


陰の行にはどんなイメージがありますか?
陰の行とはどんなことをするのかな?
陰の行はコワい?辛い?重い??
…それとも楽しい???
今回は、みなさんの聞きたい陰の行について
わかりやすく解説していただきました。
み教えの深淵にふれる「陰の行」。
ここから一歩ずつ歩んでいきましょう。



「陰の行」ってなんですか?
 陰の行とは、人が見ていても、いなくても、どんな所でも、恥ずかしくない行いをさせていただくことです。
  ただ、私たちは人が見ていないと気がゆるんだりします。御教祖様は、そんな自分一人の時こそ神様・仏様が見ていらっしゃるんだよ、という謙虚な気持ちを持つことを教えてくださっています。
  人が見ているところを「日向」とすると、人がいない、見ていないところが「陰」。そこでよい行いをすることが「陰の行」なんです。
「陰の行」をする心構えはありますか?
 御教祖様の教えの中に「人の目にかからんところは善きことはなおするようなるべく善き悪きを心に判じて固くつとめくだされ」とあります。それは人が見ていない、あるいは手を出さないところ、つまり汚い、臭い、イヤな所。そこで、自分がさせていただこう、と決めたら何があってもやるという不断の決意をいうのでしょうね。
  そして、行ったことで、どこか間違っていたら、素直にお詫びをして、2度と同じ過ちをしない、という心がけが絶対に必要だと思います。
なぜ?「陰の行」をするのですか?
 御教祖様のおことばの中に「私のばか者の筋は、目の前より陰が大事です」とあります。これは御教祖様の教えの道筋は、人前より人の目につかないところで特に力を入れてくださいよ、ということなんです。
  例えば、私たちがトイレを使うとき、あとの人のことを考えながら使用する人はいないでしょう。しかし、そのあとで次の人が気持ちよく使っていただけるように、ちょっと汚れていたらきれいにさせていただくこと。そうすれば次の人は気持ちよく使ってくださいます。そういうことなんです。誰かが喜んでくださると思えば嬉しくなりますよね。いつもそんな心でいれるようにこの行をさせていただくんです。
「陰の行」はどこでするんですか?
 場所については特に限定されません。おことばに「人の目にかからんと下駄でも洗うようにしております」とあります。御教祖様は人様が見ていないところでは人様下駄でも洗うようになさっていたんです。
  御教祖様が生きていらした時代は今のようなアスファルトの道ではないですから、下駄は砂や泥で汚れていたと思うんです。御教祖様はまずそういう汚いところからきれいにさせていただかれたんですね。ですから、御教祖様におつきなった信者様はまずトイレなどの不浄のところをきれいにさせていただくことから始められたんですね。しかし、私たちはそれにこだわらず気のついたところをきれいにさせていただければよいのではないでしょうか。
「陰の行」は一人でするものなんですか?
 そうですね。「陰の行」は、人の見ていないところや人の目につかないところでこつこつとやらせていただくことが基本なんです。そういう点からすると、大勢でするものではないかもしれませんね。しかし大勢でするのが「陰の行」ではないというのではありませんよ。例えば、トイレの清掃を一人でさせてもらっても、同じ所を数人の人が行っても、個々の感じるままにさせていただく、そうであれば、これも「陰の行」といえるのだと思います。
「陰の行」をしたら幸せになれますか?
 「陰の行」とは、人の見ていないところでも恥ずかしくないような行いをすることであり、また、自分が独りと思っていても神様、仏様が見ていらっしゃる、御教祖様がご覧になっている、そういう謙虚な気持ちを持たせていただくその気持ちが何より大切なんです。
  その敬虔な気持ちを持たせていただき、物事にあたらせていただく、そこに真の喜びと幸せがあるんじゃないかな。
人に見られたら、行にはならないんですか?
 そんなことはないですよ。なにごとにも何ものにも捕らわれないでさせていただくことが大事ですから。自分が行っていることを人に見られたから、「陰の行」でなくなった。そういうものではないんです。人が見てようが、いまいがさせていただくことが大事なんです。
どこまですれば「陰の行」は終わるんですか?
 「人間の一生のはたらきは、すべてこれを行である」と言われております。つまり、生ま
れてより死ぬまで、そのすべてが“行”だということです。「陰の行」もその一つです。そうすると終わりはないと言えるでしょうね。
「陰の行」をするとどんなことが起こるんですか?
 み教えの最終目的は人格の完成だと思います。常日頃から陰での善い行いを積み重ねることで習慣となり、いつ、どこでも、よいことが行えるようになるんですね。それは、自分の心を高めて、品位つくる、それが徳を積むことになるんですね。そして、いろんな人たちから信頼され、慕われるようになるんです。それは人格完成へと向かうことになると思うのです。もし、この行で何か見返り的なこと、お陰とかをいただこうと思っているのでしたら、「陰の行」とは言えないのではないでしょうか。
「陰の行」をしているときに心がくじけたら
それでだめになってしまうんですか?
 それはないんじゃないかな。基本は自分がさせていただくことなんですから。トイレ掃除をさせていただこうと決めて、させていただいていたのに途中でやめてしまった。だから陰の行ではなくなった。そんなものではありません。やめてしまった自分の心を反省ざんげすることが大事なんです。要は、それがよい行いであり、人様に喜んでいただける、と思ったら、固くつとめさせていただくことだと思います。
「陰の行」をしているときはどんな気持ちになるんですか?
 させていただいているときは、“無”になっていると思います。雑念がなくなるというほうがいいのかな。何も感じないくらい集中しきっている、その無心が生まれてくる状態が「陰の行」をさせていただいているときの気持ちじゃないのかな。
 最後に、「陰の行」についていろいろとお話をしましたが、「陰の行」は人様に喜んでいただける自分にならせていただくために磨かせてもらっているのだ、というそんな信念が大事なんですね。そして無意識に、また習慣的にさせていただくことなんですね。これからも共に行じさせていただきましょう。

小泉圭修先生/円応教責任役員・小黒教会長

2004年 3号 み教え一問一答「陰の行」
2004年 4号 み教え一問一答「まと・ご先祖様」
2005年 5号 み教え一問一答「誠」
2005年 6号 み教え一問一答「愛」
2006年 7号 み教え一問一答「善」
2006年 8号 み教え一問一答「教義の原典」